私の新しい夢! 故郷熊本に第1号のケアハウス
 

水清庵 施設長
水前寺清子
一生懸命頑張ってきた皆さん!!
老後はゆっくり、快適、イキイキと暮らしたいですね。

ケアハウスの夢を語っていたのはいつ頃からだったでしよう。 西城秀樹きんや野口五郎さん、青江三奈さんらに、そんな話をしたら「チ−タ、私も絶対入る」と みんなで盛り上がったことがありました。
「年をとったら、絶対つくるからね。 そうしたら、一緒にそこで歌を歌おうよ」。その時ほ夢のまた夢。 しかし、自分でも信じられないことに、それがもう夢ではなく現実に!
ケアハウスとは、お年寄りのお世話をする施設ですが、 病気や寝たきりのお年寄りも入居する老人ホームとは異なり、 元気なお年寄りたちが楽しくおしゃベりをしたり、遊んだりできる施設です。 私はすでに父母を亡くし、二人とも寝たきりの生活が長かったこともあり、 心情的に病気のお年寄りのお世話をしたり、最期の看取りをしたりすることは避けたい気持ちが強いのです。 元気で楽しめる施設ができれぱいいなと考えたのです。まず、場所だけは決めていました。 私の故郷、いやお父ちゃん、お母ちゃんの故郷である熊本しかない、と。 ケアハウスを熊本に作らなけれぱ、この計画の意味は半減してしまうのです。 私は歌手になり、熊本でコンサートを開くことができました。 信じられないような数のお客さんに詰めかけていただき、人から見れぱ十分、 故郷に錦を飾っているのかもしれません。でも、何かが足りないことに私は気付いていました。
「お父ちゃんとお母ちゃんはまだ、故郷に錦を飾っていない」。

私を歌手にさせたい一心で上京した二人は、ついに熊本に婦ることはなく、東京で亡くなったのです。 そんな二人のためにケアハウスが故郷への錦になればと考えました。
 
なぜ私は、ケアハウスを建てたのか…。
***両親の老いと死との直面から***

父が亡くなったのは1983年でした。脳軟化症で倒れた後、 1年ほどしてまた倒れ、父はそれ以来16年間、車椅子での生活でした。
仕事のある私には、介護といっても大したことはできませんでしたが、 父が望むことがあれば何でもさせてあげたいと考えていました。 温泉に行きたいと言えば温泉へ、病院がいいと言えば入院させ、うちに帰りたいと言えば連れて帰る。 そんな感じでした。
その父が亡くなった日、私は仕事をしていたのもあって最期を看取ることができませんでした。 昨日まで普通に会話していたのに、一夜にして全く違う姿になってしまうなんて思いもしませんでした。 尤も死というものを間近にしたことがなかったので、それは大きなショックでした。

母は、父が亡くなると同時に、腎臓が悪くなりました。さらに、ふとしたことで骨折したのをきっかけに 寝たきりになってしまいました。そして少しずつ痴呆が始まり、 最後には私が誰だかわからなくなってしまいました。
入院している母を見舞ったときも、一緒に来ていた夫(=小松 明氏)や姉のことはわかるのに、 最後まで私のことがわかりませんでした。私はそれが涙も出ないほど、悲しかったです。 私にとっては母は最後まで母です。娘の自分をわかってほしくて、「どうしてわからないの」というのが 私の素直な気持ちでした。でも、「親御さんは、いちばん愛した人から忘れていくんですよ」という 友人の一言で変わりました。親の介護や、親を看取ると言うことには、悲しいことがたくさんありますから、 自分の中で自分なりのけじめをつけることにしました。
89年、母を慕い、どこでも母の車椅子を押して連れて行ってくれた夫と、私は結婚式を挙げました。 残念ながら母は結婚式に出席できませんでしたが、私の花嫁姿を見ながら、「きれいかね」と言ったそうです。 その母も、それから4ヶ月ほどして息を引き取りました。

両親は、熊本で二人力を合わせて商売を初めて子どもを育ててきました。 運悪く仕事には失敗したけれど、歌が好きな娘をなんとか歌手にしてやりたいという一心で、 私と一緒に上京しました。それだけに、熊本に婦ることはなく東京で亡くなった両親のために、 故郷に錦を飾ることができればと思ったんです。

 

 
***最後まで一緒にいられる場所を***
 
このように、両親の老いや病、死と接しているうちに、 自分だけでなく夫や姉の老後について考えるようになりました。そして何より、私のことを応援してくれている ファンの皆さんのことが気になりました。
私がかつてそうであったように、ファンの方にも長い間独身を通している方がたくさんいらっしゃいます。 その方の多くが、デビュー以来ずっと、地方公演にも駆けつけてくれて、私と一緒に年を重ねてきました。
けれども私自身は、結婚したことで、そんなファンの方たちを裏切ってしまったような申し訳なさを感じていました。 そんないろいろな思いを巡らせていくうち、私のために応援し続けているファンの方たちが、 年老いても経済的な基盤が持てるようにできて、最後まで”青春”を生きていけるような場を 作りたいと思うようになりました。

それが私と両親の故郷・熊本にケアハウス「水清庵」を建てたいと思ったきっかけです。 今から10年くらい前のことです。
***ケアハウス「水清庵」の実現まで***
 
夫は、この夢の請負人になってくれました。 元々オーケストラの指揮者だったのを、私の事務所の社長として引き受けてもらった彼にとっては、全くの門外漢。 何百回も熊本通いを続け、役所を回って様々な手続きをしたり、地元特有の人間関係に身を置いただけに、 大変苦労していたと思います。でも彼は一言も愚痴を言わずに、しっかりと夢を実現させてくれました。
そしてケアハウス実現には、熊本市の社会福祉法人「慈雄会」の理事長である平原輝雄さんに協力を いただくことができました。慈雄会には老人保健施設などいくつかの施設がありますが、 実際に見学させてもらった際に触れた、ひたむきに働く若い人の姿は、 私たちの夢の実現を揺るぎないものにするほど感動的でした。

結局、行政上の決まりごとや、利用していただく方の経済的負担を大きくしないため、 ケアハウスは慈雄会や自治体とのプロジェクトで建てることになりました。 その際、私も東京の住まいや別荘、ゴルフ会員権などを慈雄会に寄贈する形で資金を負担しました。
私たち夫婦には子どもがいませんから、私産を残すというより、 人生プラスマイナスゼロで終わりにしたいというのが私たち夫婦の共通の考えです。

こうして長い道のりを越えて、ケアハウス「水清庵」は、2000年5月16日にオープンしました。

 

 
***次の夢に向かって***

夢を膨らませていたら、もう一つ施設が必要になりました。 今度は、介護の必要な高齢者の方に通っていただけるデイサービス施設を作りたいと考えています。
イメージとしては、私がハンドルを握り、高齢者の方をバスで送り迎えをして、 デイサービスを受けられる施設というところでしょうか。「水清庵」の開所にあたっては、 「オープンの日に入所者を送迎しよう」という気持ちから、この年になってですが運転免許を取っています。 デイサービス施設を開所したときには、送迎用バスを運転できるように大型免許に挑戦します。

人間は、したいことがあると元気になります。両親を亡くしたあとの私が元気を取り戻したのも、 ケアハウスという新しい夢を実現したいという思いがあったからです。それはお年寄りも同じで、 足や体の自由がきかなくてもこれをやってみたいというのなら、どんどんやらせてみていいと思うんです。 ”お年寄りだから”危ないから”止めるのではなく、好きなことをやらせることです。 やりたいから生まれる向上心がお年寄りを元気にさせ、長生きができると思うのです。 それが私なりの介護観といえるのかもしれません。
 
 
三越100年記念二月公演


2004年2月6日〜22日
日本橋三越本店6階・三越劇場
お問い合わせ・電話予約:03(3274)8675・三越劇場10:00〜19:00

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文化創作出版 http://www.bunkasousaku.com/